第九話 原稿は役員専用車で届く私は緩斜面の帝王です シーズン中はスキー場に入り浸っているのに私のスキーは初心者並です。 理屈だけは頭に入っていても、体が反応してくれません。 杉山進さんのホームゲレンデ、奥志賀高原でいつもゴロゴロしていました。 スイスイじゃないのです。 ゴロゴロです。 みんなの滑りを見ているだけです。 スキーのインストラクターの人たちやスキー場関係者は挨拶に来ます。 「ご苦労様で~す」「お世話様で~す」「コンニチワー」 誰もが丁寧に挨拶していきます。 「ご苦労様で~す。先生~っ、私のスキーはどうですか?」 「いやー、上達されましたね。いいんじゃないですか」 私に声を掛けてきたのは指揮者の小澤征二さんです。 最初は、てっきり私をスキーの先生と思っておられたようです。 それも他の先生たちが丁寧に挨拶するものだから、大変な人物らしいと……。 「誰も知らなかったよ、そんな人」 子どものスキーの本を作ろうと私の息子をスキー場へ連れていきました。 自分の息子ならモデル代のギャラはかかりません。 息子たち二人は、まだ小学生でした。 私と小澤征二さんや杉山進さんが雑談に花を咲かせていました。 「このオジさんはね。小澤征二っていって凄く有名な音楽家だよ」 息子たち二人も横でジュースを飲んでいました。 一週間ほどして東京へ帰ったときの話です。 「お父さん、ボク、恥かいちゃったよ。小澤征二なんて有名じゃないよ」 「誰も知らないよ、そんな人。友だちに知っている人いなかったよ」 世界の小澤さんも子供たちにかかっては形無しです。 子供たちは喜んではくれなかったものの、いろいろな人と出会いました。 当時、杉山さんのロッジ、スポーツハイムは一流人の溜まり場でした。 一冊の本と武藤さんと小澤さん 小澤征二さんと仲の良かった人に武藤さんという方がおられました。 当時、日本鋼管の取締役・社長室長をやっておられました。 温和な、なかなかの人物です。 奥志賀に別荘を持っていました。 日本で始めての高層ビル、霞ヶ関ビルを設計した方の息子さんです。 お父さんは東大名誉教授で大成建設の副社長でした。 柔構造ビルの発案者です。 私は以前、建築の本を作っていたので、お父さんのことは知っていました。 「ボクが翻訳するから、ゲオルグの本を出版してもらえませんか」 ゲオルグ・ヘルリグレ、オーストリーのデモンストレーターです。 杉山進スキースクールにも客員教師として滞在していたことがあります。 打ち合わせで呼ばれた日本鋼管の役員フロアーに降り立ちました。 「お待ちいたしておりました。ご案内させて頂きます」 半端じゃありません。 ホテルなんてもんじゃありません。 さすが超一流企業の役員フロアーです。 秘書の女性も飛びっきりの美人さんたちです。 それも一杯。 絨毯はふかふか。 これじゃ歩きにくいぐらいです。 役員応接室への電話 私と武藤さんが話をしているときに秘書の女性が電話を取次に来ました。 「小澤先生からお電話が入っておりますが、いかが致しましょうか」 「いいよ、こっちへつないで」 「ヤァー、いま○○さんも一緒なんだよ。小澤さんも来ればいいのに」 「えー、そう。そのメーカーの板は小澤さんには堅過ぎるよ」 「だめだよ、それも。ほかにどのメーカーの板があるの?」 「ダメだね。よければ、ボク行ってあげるよ。選んであげるよ」 「えーっ、ウクライナ。何この電話、ウクライナから」 「じゃーダメだ。適当でいいんじゃない。滑れればいいんだろ」 小澤さん旧ソビエトで演奏の合間にスキーをやろうと思ったみたいです。 「どおりで、電話が遠いと思ったよ。まったくもー」 武藤さんと小澤さん。いつもこんな調子でした。 運転手付き役員専用車で原稿が届く 私の事務所の前に黒塗りの高級車が止まります。 役員専用車です。 降りてくるのは日本鋼管の美人秘書さん。 「武藤から言いつかってまいりました」 封筒の中身はミミズが這ったような字で書かれた原稿4、5枚だけ。 こんなラリーを繰り返し、本が出来るまで一年はかかりました。 ゲオルグの本が出来てまもなく、武藤さんは亡くなりました。 まだそれほどの年でもありません。 喉頭ガンでした。 たぶん自分で分かっておられたのでしょう。 あとで考えると言葉のすみずみに余命の少なさが滲んでいました。 小澤征二さんが奥志賀高原で森のコンサートを開きました。 私は女房を連れて出かけました。 前の日はスポーツハイム泊まりです。 「やりましょうよ、前夜祭」 小澤さんが声を掛けてきました。 ハーブ奏者を中心に同宿の演奏家が集められました。 10人ぐらいです。 観客と演奏家の数はほぼ同じです。 もちろん小澤さん指揮です。 でもその場にはもう、武藤さんの姿はありませんでした。 ジャンル別一覧
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